『脱アイデンティティ』(上野千鶴子編)/『at[あっと]2号』連載「ケアの社会学」

ひさしぶりに会った友人から
「みどりさんて、ようわからん人や
とずっと思っとった」と言われた。

やりたいときにできることをしてきただけなのに、
「会うたびに変わっててつかみどころがない」
「あなたのアイデンティティは一体なんなの」と
親しくなったころに友人からけっこう言われてきた。

小さいころから、他人様だけでなく、
家族からも「変わった子」と言われつづけたわたし。
生き延びるために、その場その場を切り抜けてきた。

「アイデンティティ?そんなもんないよ」と答えるかわりに、
「あなたの知ってるわたしが、わたし」
と煙にまいてきた。
アイデンティティなんかなくったって、
わたしはちっとも困らない。

上野千鶴子[編]の最新刊、『脱アイデンティティ』。
(上野千鶴子編/勁草書房/2005.12.20)

人はアイデンティティなしでは生きられないのか?
一貫性のある自己とは誰にとって必要なのか?
賞味期限切れの概念に問題提起。


一読して、帯のコピーに共感した。

先日、上野さんの研究室におジャマしたとき、
できたてのホヤホヤを「はい」と手渡された。
表紙と目次をぱらぱらと見ただけでおもしろそう。

アイデンティティの理論の革新は、アイデンティティ強迫や統合仮説と対抗してきたが、それらの努力は、「宿命」としてこの強いられた同一性から逃れたい、または逃れる必要があると考える、(少数派の)人々によってこそ担われた、と。

「版元から送ってあったから」ということで
本はするりとわが手から抜け・・・・・。

読みたくてたまらなかったが、がまんガマン。
家に帰って、届いていた本をいっきに読んだ。


『構築主義とは何か』(上野千鶴子編/勁草書房/2001)の続編にあたるこの本は、1章から8章まで内容も執筆者も多彩である。『下流社会』(光文社/2005)の三浦展さんも、わたしが好きな『民が代斉唱』(岩波書店/2003)のチョン・ヨンヘさんも書いている。他の執筆者は、伊野真一、浅野智彦、斎藤環、平田由美、小森陽一、千田有紀さん。千田さんと伊野さんは『構築主義とは何か』にも執筆している。
「序章 脱アイデンティティの理論」と「終章 脱アイデンティティの戦略」を編者の上野さんが執筆している。

 アイデンティティの理論そのものが解放的であったり、抑圧的であるわけではないように、脱アイデンティティの理論そのものが解放的であったり、抑圧的であるわけではない。脱アイデンティティは、ある種の人々からは「病理」と見えるだろうし、べつの人々にとっては、「解放」と見えるだろう。・・・・・・ツールとしての社会学的理論は、文脈に応じて、どんな使い手にも奉仕する。だが、最後にもう一度確認しておきたいことがある。たとえそれが意図に反した利用をされることがあったとしても、どのような理論も、それを必要とする切実な動機づけを持った人々の努力によって、つくられ、変容してきたのだ、と。 <終章 脱アイデンティティの戦略>より

「脱アイデンティティ」を「解放」の理論と見るわたしは、
どうやら「病理」とウラオモテ/紙一重の人生を生きてきたらしい。

『脱アイデンティティ』が読めなかったので(笑)、
新宿の紀伊国屋で『at[あっと]2号』を買った。

活字中毒のわたしは、ホテルと新幹線で、2度読んだ。
さいしょは本の全部を。2度目はじっくりと、
上野さんの連載「ケアの社会学」だけを。

今回は《第一章 ケアに根拠はあるか》
1 なぜ高齢者をケアするのか?
2 介護は再生産労働か?
3 階層問題としての介護
4 家族介護とは何か
5 援助は正当化されるか?
6 家族に介護責任はあるか?


『at[あっと]1号』「序章 ケアとは何か?」
(10/6付記事)はこちらから


今回の論文に引用されている
『資本制と家事労働 マルクス主義フェミニズムの問題機構』
(上野千鶴子著/海鳴社/1985)がなつかしい。
わたしがさいしょに読書会をした本だ。

「解放の理論というものは社会の理論を必要とする。」

「フェミニズムは、
未だないものをあらしめようという、理論的・実践的な営為である。
社会の作りかえのために、社会をとらえる理論的な枠組み自体を
作りかえようと模索する運動である。」


このとき、
上野さんの理論を学ぶとこころに決めた。

「思えば遠くにきたもんだ」。
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