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4月3日の中日新聞夕刊・文化欄に、
WBCについて、印象的なエッセイが載った。

わたしも中学・高校・社会人とバドミントンをしていて、
スポーツはきらいではないけれど、
このところのオリンピックや国際試合などの、
ナショナルな雰囲気には強い違和感を感じていた。
それをものの見事にことばにしてくれている。

「いい記事だなぁ」と読んで思った。
星野さんてすごい人だ、とすぐにネットで本を検索した。
「星野智幸アーカイヴス」はこちらから

在日コリアンの幼なじみを親しい友として、
このエッセイに共感するわたしは、
執筆者の星野智幸さんと「東京新聞」が、
ネット上で「すさまじいばっしんぐ」を受けていることに
おどろいている。

夕刊をとっている人は少ないので、
たくさんの人に読んでほしいと願いながら、
以下に、中日新聞の記事(4/3付)を紹介します。

(星野智幸さんから転載許諾を得たものです。
エッセイの無断転載は禁止します)

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差別はなかったか  WBCがまとう暗いナショナリズム 
星野智幸
 「屈辱」発言への共感 高ぶる反応に違和感
 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で王ジャパンが優勝した日、日本じゅうが盛りあがっているのを尻目に、私は暗い気分でいた。WBCがアメリカ主導のいびつな運営だったというだけでなく、イチロー選手の言動とその受け止められ方にどうしても引っ掛かりを覚えてしまうからである。
 イチロー選手の才能と偉業には、私も常々、畏敬の念を抱いてきた。あれだけ巨大な存在だからこそ、その発言は当人の意図を超えて、よいほうにも悪いほうにも影響を及ぼす。私が疑問を感じるのは、イチロー選手の発言をめぐる日本社会の反応である。
 特に私が違和感を覚えたのは、二次リーグで韓国に連敗を喫した後の、「ぼくの野球人生の中で最も屈辱的な日です」というコメントである。 「屈辱」という言葉は、ライバル意識や「悔しい」という自分の内面を示すだけでなく、 相手から不当な辱めを受けたという敵も含む。 私はここに、相手を蔑むニュアンスを感じずにはいられない。 仮にあなたが、同期入社の社員より早く係長なり課長なりに昇進したとしよう。 その社員が「最大の屈辱だ」とコメントしたら、あなたは「見下された」と感じないだろうか。むろん私も、月面に着陸したアメリカ人宇宙飛行士よろしく、マウンドに太極旗を立てた韓国人選手たちの行為を「みっともない」と思ったが、「屈辱だ」とは思わなかった。
 その後、韓国と三たび相まみえることになったとき、イチロー選手は「日本が三回も同じ相手に負けることは決して許されない」と述べた。ほとんどけんか腰とも言えるようなその口調が誰かに似ている、と思ったら、それは去年の夏、優勢民営化法案が否決され衆議院を解散したときの、小泉純イチロー首相の会見での話し方だった。
 そう、二人は似ているのである。闘志と感情をむきだしに己を鼓舞し、仮想的を作り、勝利ののちは自画自賛する。優勝後にいたるまでイチロー選手の口から聞かれたのは、日本代表や日本野球のすばらしさを自ら讃える言葉ばかりだった。韓国という隣人の感情を想像しようとはしないデリカシーの欠如においても、両者はそっくりである。
 だが、私が最も異様に感じたのは、そのデリカシーの欠如を、日本人の多くが共有しているらしいということである。「屈辱」という、どう解釈しても差別的なイチロー選手の発言は、不思議なことに、大手メディアを始め、日本の中ではそれほど物議を醸さなかった。つまるところ、多くの日本人の中には同じような差別意識が潜んでいるがゆえに、誰も疑問に思わないのではないか、とさえ思ってしまう。
 これは私の勝手な考えだが、こじれる一方である首相の靖国神社参拝問題によって、日本人の間には韓国を疎ましく思う気持ちが強まっており、WBCでのイチロー選手の発言はその傾向にみごとに合致した、ということではないだろうか。極端に言うと、イチロー選手の発言は、靖国参拝という国内事情にガタガタ口を挟む韓国への恫喝として、日本の視聴者の賛同を得たかのように、私の目には映りもしたのである。
 首相の靖国神社参拝について、多くの世論調査で賛否はほぼ拮抗しているようだ。だが、実際に自分が靖国神社へ参拝している人はとても少ない。首相参拝に賛成している人のうち、小泉首相が参拝して問題となる以前から「首相はなぜ参拝しないのだ」と思っていた人は、はたしてどのくらいいるのだろう。
 私には、世論が架空の敵を作っているようにしか見えない。靖国神社自体のことは本当は重要ではなく、韓国や中国がうるさく言うからあえて参拝してやれ、という一種の嫌がらせのような空気すら感じるのである。そこには、他人を貶めることで自我を強固にしたいという、攻撃欲が含まれてはいないか。
 せっかく好ゲームを展開して優勝したはずのWBCに、暗いものがつきまとって感じられるのは、日本の中に潜むこのような攻撃欲があからさまに姿を見せ始めた大会だったからである。これまで他の国際スポーツ大会、特にオリンピックやサッカーのワールドカップでも、他者を差別することでモチベーションと熱狂を高めるような露骨なナショナリズムはあまり見られなかった。
 そのことを疑問に思う声が少なく、新聞でさえも差別を問う議論がなかったことに、私は失望している。(ほしのともゆき=作家)
(2006.4.3 中日新聞夕刊・文化欄より)
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講師拒否事件でバックラッシュを受けている
上野さんにコンタクトをとる用事があったので、
ご参考までにと、新聞記事をお送りした。

記事を読んでの感想がすぐにメールで届いた。
ブログ転載の許諾をもらったので、
以下に全文を紹介します(無断転載禁止)


上野千鶴子さんからの感想-------------------------------------------
記事拝読。
星野さんという書き手には、このところ注目していました。とりわけエッセイが抜群
におもしろく、掲載紙の「日経」(購読していなかったので)を毎週、友人から切り
抜きでもらっていたほどです。
内容はまっとうなことばかり。ですが、猛反発の理由はわかります。ネット上では臆
面もない「第三国人差別」が目を覆うばかりに横行しており、「ネット上の正義」に
抵触して叩かれるのは理解できます。とはいえ、ネット人口は活字人口より年齢も性
別もおそらく社会階層にも偏りがあり、そこでバッシングを受けたからと言って(あ
たしだって受けてます(笑))めげる必要なんてありません。
こういうまっとうな意見にバッシングが来るご時世がほんとにいやですね。こういう
記事を載せるのが、今や一部の良識的なメディアばかり(読売、サンケイは載せてく
れないでしょう)というメディア事情も困りもの。
香山リカが、サッカー、ワールドカップの「ニッポン、チャ、チャ、チャ」を「ぷち
ナショナリズムな風景」と呼びましたが、ポスト構造主義のアイデンティティ理論か
ら言えば、パフォーマンスこそがアイデンティティをつくる。「ぷちナショ」どころ
か、これを正真正銘の「ナショナリズム」と呼ぶのです。異端者を許さない強い同調
圧力と排他主義、これこそがナショナリズムの特徴ですからねえ。「WBCって何?」
とTVを見ないわたしが口にできないような状況がありますからね。
野球の本拠地アメリカで、アメリカに勝ったキューバ(北朝鮮とならんで「最後の秘
境」のひとつ)に勝って世界一になった、というところに、もしかして太平洋戦争の
仇討ちをしたような気分になっているのかしらん?しかも衰退気味の日本野球をもり
立てたのが、台湾出身の監督だというポストコロニアル状況には目をつむって。そう
いえば衰退国技をもり立てているのも、外国人力士ばかりですが。
TVを見ないにしてはよく知っているでしょう?(笑)
つい長くなりましたが、感想まで。
                     上野
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「異端者を許さない強い同調圧力と排他主義、
これこそがナショナリズムの特徴ですから・・・・」
異端であること、がほとんど、わたしであること、
のように生きてきたわたしは、
上野さんのお返事を読んで、ほんとにそのとおりだと思った。

このエッセイが、ストンと心に落ちる人も多い。
(すくなくともわたしの周辺では)。
万人に共感されなくても、そう思わない人がいたとしても、
そういう人たちにメッセージがちゃんと届けば、いいじゃないか。
わたしはそう思う。

あらためて、星野さんのエッセイを読んだ。
とってもよい記事だと思う。

「新聞は社会の木鐸である」

わたしは星野智幸さんと中日新聞を支持します。
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外は雪。
こんな日は「星の王子さま」が読みたくなる。

さいしょに、この本を読んだのは、
わたしがまだ、こども、と呼ばれていたころ。
ヘビにかまれて死んでしまった王子さまを思って泣いた。

『星の王子さま』(サン=テクジュペリ作/
内藤濯(あろう)訳/岩波書店/1962)

(内藤訳・P119)
「たいせつなものは目に見えないんだよ・・・・」

「花だっておんなじだよ。
もし、きみがどこかの星にある花がすきだったら、
夜、空を見あげるたのしさったらないさ。
どの星も、みんな、花でいっぱいだからねえ」

「夜になったら、星をながめておくれよ。
ぼくんちは、とてもちっぽけだから、
どこにぼくの星があるのか、きみに見せるわけにはいかないんだ。
たけど、そのほうがいいよ。きみは、ぼくの星を、
星のうちの、どれか一つだと思ってながめるからね。
すると、きみは、どの星も、ながめるのがすきになるよ」

「ぼくは、あの星のなかの一つに住むんだ。その星のなかで笑うんだ。
だから、きみが夜、空をながめたら、星がみんな笑ってるように見えるだろう。
すると、きみだけが、笑い上戸の星を見るわけさ」


わたしは、星をながめるのが、すきになった。

岩波書店の内藤濯訳の『星の王子さま』を手に入れたのは、
わたしがもう、こどもと呼ばれなくなった、ころ。
その後も、かなしいときやさみしいとき、
「星の王子さま」を手にとった。
こんな雪の降る夜にも、ね。

読むたびに『星の王子さま』はちがう姿をみせる。

ことしになって、池澤夏樹さんと倉橋由実子さんの新訳で、
あたらしい『星の王子さま』がたてつづけに出た。
どちらも、わたしが好きな作家だ。

『新訳 星の王子さま』(アントワーヌ・ド・サンテクジュペリ/作
倉橋由実子/訳 宝島社/2005)


(倉橋訳・P111~)
「きみたちはほくのバラの花とまるでちがうね」
と王子さまは言った。
「きみたちはまだ何者でもない。
誰もきみたちを仲良しにしたわけじゃないし、
きみたちも誰かを仲良しにしたわけじゃない。
ぼくがはじめてあの狐と会ったときと同じだ。
狐はほかの十万匹の狐と変わらなかった。
でも彼を友だちにしたんだから、
今ではこの世に一匹しかいない狐だ」
そういわれてバラたちは恥ずかしい思いをした。
「きみたちは美しい。でも空しい。
人はきみたちのために死ぬ気にはなれない。
そりゃぼくのバラだって、ただの通りがかりの人が見れば、
きみたちと同じようなものだと思うかもしれない。
だけど、ぼくのバラはそれだけで、
きみたち全部を一緒にしたよりもずっと大切なんだ。
だって、ぼくが水をやったんだからね。
覆いガラスもかけてやったし、衝立で風も防いでやったんだからね。
毛虫も(二つ、三つは蝶になるようにそのままにしてたけど)
殺してやった花だから。不平にも自慢話にも耳を傾けてやったし、
黙っているときでさえも耳を傾けたんだから。
彼女はぼくの花なんだ」

それから王子さまは狐のところに戻ってきた。
「さようなら」と王子さまはいった。
「さようなら」と狐がいった。
「おれの秘密を教えようか。簡単なことさ。
心で見ないと物事はよく見えない。
肝心なことは目には見えないということだ」
「肝心なことは目に見えない」と
王子さまは忘れないように繰り返した。
「あんたのバラがあんたにとって大切なものになるのは、
そのバラのためにあんたがかけた時間のためだ」・・・・


星の王子さま』(アントワーヌ・ド・サンテクジュペリ著/
池澤夏樹新訳/集英社/2005)


(池澤訳・P94~)
「星がきれいなのは、
見えないけれどどこかに花が一本あるからなんだ・・・・」

「砂漠がきれいなのは」と王子さまは言った、
「どこかに井戸を一つ隠しているからだよ」
砂漠が放つ光の秘密がいきなり明らかになったみたいで、
ぼくはびっくりした。まだ小さかったころ、
ぼくはとても古い家に住んでいて、
その家にはどこかに宝物が埋められているという言い伝えがあった。
もちろん誰もそれをまだ見つけていなかったし、
ひょっとすると、誰も探してもいなかったかもしれない。
でも、そのおかげで家ぜんたいがすてきになった。
ぼくの家はその心の深いところに秘密を隠していた・・・・・
「そうか」とぼくは彼に言った。「家でも、星でも、砂漠でも、
きれいに見えるものは何かを隠しているからなんだ!」


本の最後のことばば、こころに染みしおる。
 
(倉橋由実子訳『新訳 星の王子さま』P146~147)
まったく不思議なことだ。誰も見たことがない羊が
誰も知らないどここかでバラの花を食べたか食べなかったか
ということで、この世界のすべてが違ったふうに見える。
それはあの王子さまが好きなあなたにとってもだ。
空を見てごらんなさい。羊が花をたべたのか、
食べなかったのかと考えてごらんなさい。
そうすれば、世界がどんなに変わるかがわかる。
そして大人は誰も、それがどんなに大切なことか、
けっしてわからないだろう。


倉橋由実子さんは、この本を訳した直後の
2005年6月10日に亡くなった。

外は雪。
わたしは「星の王子さま」を読んでいる。
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